俳句の間違いで多い「現れる」

俳句作品の中で見かける、「現れる」という言葉は、文語にはありません

現代の言葉(口語)では「現れる」がありますが、文語の場合は「現る」になります
ですから、文語で俳句を作る場合は、注意しましょう


実際に、俳句作品を見てみましょう

夕空や帰燕の一羽現れる

文語で書くならば、「現れる」は「現る」になります

夕空や帰燕の一羽現る



ただ、「現る」だと下五が四音になってしまうので、一音つけたいところです

この場合は、例えば完了の助詞「つ」を使っても良いでしょう

夕空や帰燕の一羽現れ

このようにすれば、「現れたと」いう意味で使えます


「切り口の独創性」は「新しい発見」のこと

俳句で大切なのは、「切り口の独創性」と言われます

切り口の独創性というと
人がびっくりするような物事を探さなければいけないの?
難しい言葉を使った方がいいの?

皆がはっとするような、言い回しを探した方がいいの?
などと、思う人もいると思いますが、そのような必要はありません


切り口の独創性は、普段、周りのみんなが言ってきたこと
そこから少しだけ「新しい発見」があればいのです
難しく考えることはありません


例えば、降っている雪の中を風が吹き抜けた
その時の雪の揺らぎが美しくて、俳句に詠みたいと思います

たいていの場合
雪が揺らいだ
雪が風に流れていった

など、当たり前の表現を使ってしまいます。それはそれでいいのですが
もう少しだけそこから、誰も言わなかった、誰も気が付かなかった事を発見して、付け加えます

高野素十の句を紹介します

春の雪波の如くに塀をこゆ

雪が風に吹かれて、波のように塀を超えていった、と言っています
波のように、、、
簡単な言葉です
ですが、揺らいだ様子の表現としては新しい発見です


俳句は、当たり前の表現、皆が言っていることを言っても意味はありません
誰も言わなかった、誰も気が付かなかった新しい発見をして言うこと
それが「切り口の独創性」になりますし、読者の心にも残る表現になります


人がびっくりするような物事
難しい言葉
皆がはっとするような、強い言葉

このようなものを探そうと考えると気負ってしまうだけです

気軽に
普通見ている景色から、少しだけ「新しい発見」ができないか観察しましょう
「新しい発見」が、そのまま「切り口の独創性」になります


やってしまいがち!!季語の中に「の」を入れる間違い


季語や子季語の中には、「の」が含まれるものがあり、使うときには注意をしましょう
「夏の川、夏の朝、夏の山」などの使い方はよいのですが、問題は次の使い方です

〇「花冷え」
×「花の冷え」

このように「花冷え」という言葉に「の」を付けて、「花の冷え」などとしてしまうことです
「花冷え」の意味は、花が咲くころに生じる寒さのこと
「花冷え」に「の」を付けて、「花の冷え」にしてしまうと、花が冷えたという意味になってしまいます

音数を合わせるために、つい季語の中に「の」を入れてしまうことがあるのですが
「の」を入れることで意味が変わってしまわないか、使うときには必ず確認をした方がいいでしょう




579 俳句に意味はありません


よく「この俳句はどういう意味ですか?」と聞かれることがあります
特に、俳句をやったことの無い人や、始めたばかりの人に聞かれます

俳句の中には、含み隠された内容や、メッセージのようなものがあると思われているようですが、基本的に、そのような物はありません
俳句は何らかの隠された内容を伝えるものではないですし、伝えるために作られている訳ではありません

ですから、鑑賞する時は、その俳句の「意味」を知ろうとするのではなく、その俳句を作った時の「作者の心」を感じましょう

逆に、作る時は「何か意味を伝えよう」とするのではなく、「自分のその時の気持ちが伝わるか」を考えて作ります

そういう意味では、俳句は絵や音楽に近いとのかもしれません
例えば「モナリザ」の絵は、「微笑んだ女性が描かれている」だけに過ぎません
絵自体に意味はないのですが、鑑賞者は「作者がそこに込めた何か」に思いを馳せます

この微笑にはどのような意味があるのか?この女性は誰なのか?ダ・ヴィンチはどのような思いでこれを描いたのか?
鑑賞者はそのようにして、様々な抽象的概念に思いを馳せることができるから、作品の中に没入していけます
そうすることで、心の中には言葉にできないものが沸き立ちます



例えば、この句

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

この句の意味は何なのか、と問われても誰も答えられません
作者に尋ねてみても、その時の背景は聞けても、意味は聞けない筈です

ワシコフとは誰か?何故ザクロを打ち落としたのか?戦中を生きた作者はこの景色を見て何を思ったのか?
鑑賞者はただ、そのときの作者の心に近づくために、作品に思いを馳せるだけです
人によっては悲しい感情が沸くかもしれません
怖さを感じるかもしれません
もしかすると、作者がそこに込めた思いと、自分の感覚が混ざることで、誰も気が付かなかった別の解釈が生まれることがあるかもしれません


俳句には意味はありません
鑑賞する側は、ここを理解しておかないと
「あぁ、俳句は分からない」「まったく意味が分からない、もう嫌だ」となってしまいます

作る側にしても、ここを理解せずに「何か深い意味を伝えよう」と思ってしまうと
「あぁ、全然意味が伝わらない。もう嫌だ」となってしまうでしょう








573 先達の俳人が残した言葉


先達の俳人が残した言葉です
ページを表示するたびに、新しい言葉が表示されます
毎日俳句を作る前に見ても良いと思います












578 俳句で使える色々な「連体形止め」

俳句をやっていると「連体形止め」という言葉を、一度は聞いたことがあると思います
俳句の最後(文末)が連体形になっているものを言います
連体形で終わらせる(俳句を止める)ことから、「連体形止め」と呼びます

ではこの「連体形止め」
いったい、どういうときに使われるのでしょうか
ここでは「連体形止め」を、どういう時に使うのかを紹介します

「連体形止め」は、「意味の強調・疑問・感慨・想像の広がり・余情・余韻」などさまざまな効果をもたらします
そのような効果を得たいときに、「連体形止め」が使われます

具体的に、それらの効果を表にまとめました


 意味の強調

文中の「ぞ・なむ」を連体形で結ぶと、意味が強調されます
「ぞ・なむ」の係助詞を、連体形で結ぶことから「係り結び」と言います


初日はめでたし(初日はめでたい)

    ↓「ぞ」を連体形の「めでたき」で結ぶ

初日めでたき(初日こそはめでたい)



 疑問・反語

文中の「や・か」を連体形で結ぶと、疑問・反語になります
「や・か」の係助詞を、連体形で結ぶことから「係り結び」と言います


彼は来ず(彼は来ない)

    ↓「や」を、連体形である「ぬ」で結ぶ

来ぬ(彼は来ないのか)


 感慨

主格の格助詞を連体形で受けて感慨を表します
格助詞には「が・の・を・に・へ・と・より・から・にて」などがあります

原に寂しき犬がありけり(~犬がいた。)

    ↓格助詞の「が」を、連体形の「ける」で受ける

原に寂しき犬ありける(~犬がいたんだ。)



 想像の広がり

連体形の後ろにつくはずの体言(名詞など)を省略して、あとは読者の想像の広がりに委ねます

人を乗せず川面を流るる小舟

     ↓

人を乗せず川面を流るる(小舟)

「小舟」が省略されていますが、「人を乗せず」と言っているので、何か舟のようなものが流れているのだろう、と想像できます
読者によっては筏(いかだ)を想像する人もいるでしょうし、カヤックが流れてきたと想像する人もいるでしょう
「小舟」と言ってしまうと、読者は一様に小舟しか想像できませんが
「小舟」を省略することで、読者はそれぞれの想像を広げることができます

明記しなくても推測が立つであろう体言を省略します

準体法とも呼ばれます



 余情

前出の体言を省略することで、余情をだします

寒紅梅不思議のごとく子の眺むる
この句だと、「眺むる(連体形)」が、前出の体言である「寒紅梅」に繋がります

言い換えると、連体形につながる名詞が隠れていると言うことです
寒紅梅不思議のごとく子の眺むる(梅)

ちなみに終止形止めだと、このようになります
寒紅梅不思議のごとく子の眺む(。)


連体形止めの方は、その先にも少し文が続く印象があります
終止形止めだとそこで文が断絶されるので、意味も淡白な感じになります


 余韻


連体形の後につながる言葉を省略して、余韻を残します
「こと」「もの」「ひと」「とき」などを省略していることが、多いようです

麦畑のいと寂しき(こと)
白鳥が舞ひ降るる(とき)

文末にあるはずの言葉を省略します
本来ならば文が続くところを、突然切られることで、余韻が生まれます

「こと・もの・ひと・とき」などを省略して「を・に・が」をつけることもあります

麦畑のいと寂しき
白鳥が舞ひ降るる



余韻も生まれますし、音数を調整するのにも役に立ちますね



「連体形止め」の効果を解説しましたが、念のために、注意ポイントも紹介します
俳句は、これ以上ない所まで文を省略します
省略したあげく、連体止めを使うために、その後の名詞などを更に省略すると、場合によっては意味の分からない句になることがあるので注意が必要です

それと、やはり俳句のような短い文章では終止形で終わったほうが、断然引き締まります
ですから、何でもかんでも連体止めにするのではなく、確実に効果の得られるときに使いたいものです










576 季語の「桜散る」は動詞としてカウントされる?

 

季語の「桜散る」は動詞としてカウントされるのか?についてですが
動詞としてカウントされます

俳句では動詞が複数あることが嫌がられるので
季語である「桜散る」は、できれば動詞としてカウントされなければ良いな、と期待を持ってしまいますが
動詞としてカウントされます

もし名詞を使いたい場合は、「飛花」という言葉があるので、そちらを使うといいでしょう

ただ、言葉の印象や、音の流れから「飛花」よりも「桜散る」の方を使いたい、ということは当然あります
この時は、「桜散る」ではなくて、「散る桜」として使うことも一考です
動詞が含まれていても、「散る桜」の方が動詞の印象が軽減するからです

どういうことかと言うと

「桜散る」の方は、「桜が散っている」というように、動詞(散っていること)に重点がありますが
「散る桜」の方は、「散りゆく桜」というように、名詞(桜)に重点があります


動詞を含む季語は他にもあります
動詞として使いたくないな、と思ったときは、今回のように語順を変えて、動詞の雰囲気を和らげてみてはどうでしょうか