情緒を間接的に伝える


 
情緒(喜怒哀楽などの心の動き)を俳句の中に込めるとき、直接的な言葉で伝えることもできるが、様々な事柄の組み合わせによって間接的に伝えることもできる
方法としては、後者のほうが優れているし、作者はそちらを目指す努力をすることが大事だ
 
具体的にいうと、「寂しさ」を言葉で伝える場合、そのまま「寂しい」と言ったり、「彼女と別れた」「一人きりで公園にいる」「ペットが死んだ」などのような、多くの人が寂しさを彷彿させるだろう言葉を使うことは、直接的な方法だ
これは比較的容易にできるし、誰にでも真似ができる
 
一方で、間接的に伝えるというのは、そのような言葉を使わずに情緒を感じさせること
俳句で言えば、次の句のようなもの
 
「子を発たせまだ日の残る春障子」  大串章
 
この句は「子が発った」ことと「まだ日の残る春障子」という、二つの事柄の組み合わせることで、間接的に作者の寂しさや、心に穴が開いたような空虚感を伝えている
しかも、直接的に「寂しい」というよりも遥かに強く寂しさを伝える事ができている
 
組み合わせが、「子が発った + 地平まで晴れ渡る夏空」であったなら、作者の心は、子の門出の大きな未来に期待するものになるかもしれない
 
このように、組み合わせの事柄によって、情緒を間接的に、しかも効果的に伝えることができるわけで、作者は常にその効果を意識して作ることが大切だ
 
 
話は変わるが
様々な事柄を組み合わせるというのは、俳句では「二物取り合わせ」と言われる
つまり、二物取り合わせで句を作る理由の一つは、今回のような効果を狙うことにある
 
よく俳句大会の講評で、取り合わせの必然が感じられない、と言われる句がある
たいてい、適当な事物を取り合わせて、あとは勝手に読者が想像してくれ、と放り投げたような句だ
当然、そのような句には何の効果も見られない
 
「二物取り合わせは、季語と適当な事柄を組み合わせればいいだけだ」
と、当たり前のように言う人がいるが
そのような人たちが、適当な二物取り合わせの句を量産する
 
初心者は、これらの言葉を絶対に信用してはいけない
必ず組み合わせた事柄が、どのように読者に作用するのか意識して作ろう