475 俳句での「美しい」「可憐」が何故いけないのか!その理由

 

 

俳句では、「美しい」「可憐」「儚い」といった形容詞は使わないほうが良いと言われます

理由はいろいろあるのですが、本多勝一さんの言葉が、一つのヒントになると思いますので、紹介します。

 

 

 

菫の花を見ると、「可憐だ」と私たちは感ずる。それはそういう感じ方の通念があるからである。しかしほんとうは、私は菫の黒ずんだような紫色の花を見たとき、何か不吉な不安な気持ちをいだくのである。しかし、その一瞬後には、私は常識に負けて、その花を可憐なのだ、と思い込んでしまう。文章に書くときに、可憐だと書きたい衝動を感ずる。たいていの人は、この通念化の衝動に負けてしまって、菫というとすぐ「可憐な」という形容詞をつけてしまう。このときの一瞬間の印象を正確につかまえることが、文章の表現の勝負の決定するところだ、と私は思っている。その一瞬間に私を動かした小さな紫色の花の不吉な感じを、通念に踏みつけられる前に救い上げて自分のものにしなければならないのである。

 

(本多勝一著『日本語の作文技術(新板)』P.258より)

 

 

 

俳句で表現をすることは、ここでも言われている通念(一般に共通した考え)との戦いだと感じます

以前に誰かが言った言葉、多くの人に使い古された言い回しは私たちの中で、使われるのを待っているのです

この衝動に負けてしまうと、今まさに浮び出てこようとした「自分の言葉」はかき消され、馴染みきった「いつもの表現」に上書きされてしまいます

 

桜が美しい

雪は儚い

寂しい虫の声

 

誰もが言う「いつもの表現です」

このような言葉で俳句をいくら作ってみたところで、それは、みなと同じありきたりの句にしかならないのです

本多氏が言うように、「美しい」「儚い」「寂しい」などの言葉が出る前に感じる、一瞬の印象を捉えて表現しなければいけないことを、肝に銘じておきたいものです