445 季重なりは気にせずに、俳句を作ろう



1. 季重なりとは?
2. 季重なりは、ここで失敗する
3. 季重なり否定派の意見
4. 先輩たちの季重なりへの考え
5. 季重なりの名句
6. 季重なりについて(まとめ)
7. 世界に俳句が広がると





季重なりとは?
一つの俳句の中に2つ以上の季語があることを「気重なり」と言います

一般的には、季重なりは避けるのがよいとされています
初学者では季重なり部分で失敗が起こりやすいことから、このように言われますが、失敗しやすい部分さえ注意して俳句を作れば、季重なりの句を作ることは何の問題もありません
むしろ創作の幅を広げるためにも、季重なりの句をたくさん作るべきだと思います


ここでは、季重なりの失敗しやすい部分や
季重なりの否定派の意見
季重なりの名句などを、紹介していきます









季重なりは、ここで失敗する
初学者は季重なりで句を作ると失敗をしやすいのでが、失敗で圧倒的に多いのが「2つの季語が、重複の言葉となって」しまうことです
例えば次の句

夏暑し 汗かきながら 氷菓食ふ

四つの夏の季語で構成されています(夏・暑い・汗・氷菓)
考えてみましょう
この句では、果たして四つも季語が必要でしょうか


氷菓を食べるというだけで、夏であることが分かります、暑いことも分かります、夏なのだから汗をかいているだろうことも想像できます
つまり、「氷菓」の季語の本意の中に、全てのことが含まれているため、氷菓以外の言葉は必要ないのです
それをわざわざ入れるのは、重複する言葉(季語)を並べているにすぎません

初心者が2つの季語を使うと、大抵このような無駄な季語の重なりとなっていることが多いのです
ただ、この失敗が大多数だと言うことは、この失敗さえ注意すれば、あとはそれほど神経質になる必要はないということです






さて、このように季重なりの句を作っても良い、と言うと
季重なり否定派の人たちからは、次の意見が出てきます






季重なり否定派の意見


   季語が2つあると、どちらの季語が主だか分からない
② 2つの季語が、異なる季節で重なっている場合、(季節感が無茶苦茶で)俳句とは言えない

このような理由から、季重なりの句は絶対に作ってはいけない


どちらの意見も、初心者が聞くともっともらしく聞こえて恐縮してしまうのですが、これらの意見は、どちらも意味のない意見ですので、真に受けなくてだいじょうぶです
この2つの意見について、なぜ意味のない意見なのかを説明します


   季語が2つあると、どちらの季語が主だか分からない

季語が2つあると、どちらの季語が主役なのか分からないと言う意見がありますが、そもそも、季語のどちらかを主役にしなくてはいけないのか、ということがあります
冷静に考えてみれば、どちらが主でも、どちらが従でも関係の無いことではないでしょうか

目の前で、蒲公英(春)に蜂(春)が止まっていたとします
その景色を見たとき「蒲公英が主役だ」「いや蜂が主役だ」と見る人は、一人もいません
自然の中には主役などいませんよね
それなのに、俳句の中で蒲公英と蜂が出てくると、主役を決めようとして、挙句に「主役がどちらだか分からないから駄目だ」と言うのは、意味のないことなのです




念のためですが
季語が2つあったとしても
主役をはっきりさせることはできます


俳句を2~3年真面目に続ければ、どの言葉が一番重要(主)かは、誰でも分かるようになります
次の芭蕉の句を見てみましょう
季重なりです


蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ ゆく秋ぞ


この句では「蛤(春)」と「秋」の、二つの季節が入っています
この句で、どちらを主に詠っているか、分かりますか?

この句での主役は「秋」であることがハッキリとわかります
一方で、蛤は季語ではなく、単なる名詞になります

なぜでしょう?

蛤は春の季語とはなっていますが、食卓を見れば一年を通じて見ることができるからです
一方で秋は一年の中の三か月の特定の期間にしか存在しません
そうなると、誰が考えても「秋」に蛤を見たと考えるのが自然となります


季語が二つあるときは
見ることのできる期間の長い方が「名詞」
見ることのできる期間の短い方が「主の季語」
になっている傾向があります
短い期間の方は、まさにその時期にしか見ることのできない事物のため、大抵主役として詠まれているのです


勿論、これに当てはまらない句もあります


啄木鳥や 落ち葉をいそぐ 牧の木々

啄木鳥(秋)は、一年の長い期間を通してみることができます
落ち葉(冬)は短い期間にしか見ることができません
そうなると落ち葉(冬)が主になりそうですが、この句では啄木鳥(秋)が主として詠まれています
啄木鳥に切字の「や」が付いているからです
切れ字は、一句の感動の中心を表わしているので、作者は落ち葉よりも啄木鳥に感動しています
限りなく冬に近い秋の終わり、の場面です



ここで説明したように
一句の中に季語が二つあっても、少し考えてみれば、どちらを主に詠んでいるのかは分かります


上記の説明に当てはまらず、「どうしても主の季語が分からない」という句もあります
千句に1句くらいはあると思います
どうすればよいのでしょうか?

何もしなくて大丈夫です
主役を決めたいという人が周りにいれば、その人に決めてもらえば良いと思います

俳句をやって行くうえで、このことは大切です
あなたの大切な時間を「主役探し」という、つまらないことに費やすことは絶対にやめた方がよいでしょう
それよりも、あなたにしか作ることができない、良い句を作ることに専念しましょう







季重なり否定派の、もう一つの意見です


② 2つの季語が、異なる季節で重なっている場合、俳句とは言えない




先ほど紹介した二句は、たまたま異なる季節が一句の中で使われていました


蛤(春)の ふたみにわかれ ゆく秋ぞ

啄木鳥(秋)や 落ち葉(冬)をいそぐ 牧の木々



誓子の代表句にも、季節が異なっている句があります


かりかりと 蟷螂(秋)蜂(春)の かほを食む



このように、異なる季節が混同すると、どうなるのでしょうか?
結論を言いますと、「どうもならない」です


自然の中に出かけたときに、蟷螂と蜂を同時に見ることは普通にあります
晩春から初秋への移り変わりの時期であれば、同時に両方を見ることは頻繁にあります

蟷螂を秋、蜂を春、と分類しているのは人間です
歳時記を作るために、便宜的に季節を分類しているにすぎません

俳句は目の前の自然を詠むものです
歳時記の季節が絶対ルールで、歳時記の季節を基準に詠むものではありません

(歳時記上の)異なる季節の季語を取り合わせた句は、どちらの季節か分からないから駄目だという発言は、単に「歳時記の分類に困る」と言っているようなものです

ですから、このような意見も、あまり真剣に受け取る必要はありません









大御所俳人と季重なりの関係は、どのようなものだったのでしょうか



先輩たちの季重なりへの考え

先輩俳人たちの、季重なりへの意識を調べてみると、総じて季重なりについて問題とも思っていなかったようです

芭蕉は、生涯に作った1,000句の約15%が季重なりの句です
蕪村も季重なりの句を多く作っています。蕪村の句を鑑賞してみると、季重なりを避けようと言う意識はまったく感じられなくて、むしろ両者のかもし出す詩的情緒を楽しんでいるようにも思えます。おそらく、俳句の創造性の一つとして積極的に取り入れようとしていたのではないでしょうか

虚子は句の講評にあたり、季重なりがいいとも悪いとも言ったことはなく、そもそも季重なりに全く関心がなかったようです
飯田龍太は「自然の方が季重なりであるのだから、句が季重なりになるのは当たり前だ」と言っています

秋桜子、鬼城、蛇笏、誓子、素十、草城、楸邨、波郷といった大先輩たちも、当たり前のように季重なり句を作っています
季重なりは、同じ季節の季語だけではなく、異なる季節の季語が入っているものもたくさん作っていました

ですから、芭蕉時代から虚子辺りまでの俳人は、ほとんどの人が季重なりについて問題にしていませんでした
季重なりを問題にし始めたのは、最近の俳人といえます







季重なりの名句

先輩方の季重なり句はどのようなものがあるのでしょうか
自由に季語を重ねた名句を、鑑賞してみましょう


一家に遊女もねたり萩と月(松尾芭蕉)

目には青葉山ほととぎす初がつを(山口素堂)

四五人に月落ちかかるをどりかな(与謝蕪村)

梅雨ながら且つ夏至ながら暮れてゆく(相生垣瓜人)

蝶(ちょう)の舌ゼンマイに似る暑さかな(芥川龍之介)

みじか夜や毛むしの上の露の玉(与謝蕪村)

ゆく春や逡巡として遅ざくら(与謝蕪村)


どの句も、味わいのある良い句です
もし重なっている季語を捨ててひとつにしてしまったら、どうなるでしょうか?
句のおもしろさは一瞬で無くなってしまいます











季重なりについて(まとめ)

季語は作品を作るうえでの材料にすぎません
文学全体で見たとき、こちらの材料を使ったら、あちらの材料は使えない、というルールを決めているものなど、一つもありません
小説もエッセイも、ポエム、詩、短歌のどれも、あらゆる材料を自由に使って作品を作り上げています
俳句だけが材料(季語)を一回しか使えないというルールを本気で唱えるのだとしたら、あまりにも異様で滑稽な光景と言えないでしょうか

言葉の使用制限を設けることは、自らの創造性を狭めているだけにすぎません
むしろ、季語と季語の衝突から生まれる新しい詩のあり方を模索することが、創造性を広げることにつながるのではないでしょうか


季重なりについての議論は、議論自体が無意味なことと言えます
重要なのは、そこにある言葉が成功しているか失敗しているか、つまり必然か無駄か、といった事だけです






世界に俳句が広がると

最後に、海外から見たときに「季語」は、どういった立ち位置になるのでしょうか
日本で始まった俳句は現在、海外でも愛好者が増えています
そのような中で、海外から日本の俳句の季語を見たときに、季語はどのような立場になるのか?
高い確率で、季語は単なる単語(名詞)にしかならなくなると思います
季語が名詞化すると、俳人が考えるような季節感や、季語の本意といったものが理解されることは無くなるはずです
季重なりが、今以上にどうでもよい問題になるはずです

季語が名詞化すると、句の内容も大きく変わると思います
句の中心に季語の本意をゆだねるような、二物取り合わせの句は消えるはずです。一物仕立てや、写生句などは残るかもしれませんが、そこで使われる季語の本意も、やはりくみ取られることはないでしょう
もし、季語の本意が消えないケースがあるとすれば、それは、世界中の季語および、季語に対する各国の思いを全てまとめた大歳時記ができた時ではないでしょうか。それをまとめた暁には、季語の本意は残るのだろうと思います。
ただこれは、途方もないエネルギーを必要とするので、確率としては、季語が単なる名詞となる方が高いでしょう

季語という概念がなくなった俳句が世界中に広まり、それぞれの国がそれぞれに俳句を作っていけば、共通するのは世界最短という文字数だけになります。こうなるともう、俳句である必然性がなくなるのかもしれません

もし俳句が、俳句として残り得るとすれば、季語に変わるほどの大きな言葉、世界中の人に共通した意識をもてる力強い言葉が生まれたときではないでしょうか
具体的にその言葉が何なのかは分かりませんが、もしかすると、人に対する思い、大切な人への思い、仕事への意識、自然、環境、社会への意識を伝える言葉なのかもしれません
もし、このような言葉で世界中の人々が意識を共有できるようになれば、俳句を通じて、国境も、文化の違いからくる互いへの誤解なども一気に取り払われるような、そんな大きな流れが生まれる気がします

そのような新しい時代が来ることもまた楽しみといえます